ここでは死刑制度に賛成論? A-1で採りあげた質問者sorairono2000氏の知恵袋Q&Aに寄せられた回答が面白かったので取り上げます。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161869626#a397304867
なお、回答者sorairono20sorairono2000の関係は私には分らない。
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「死刑肯定論・森炎著・ちくま新書」
(森炎氏=東京地裁・大阪地裁などの裁判官を歴任した弁護士)
(第四章 「冤罪問題で死刑を廃止するか」より引用)



イギリスでは、冤罪が死刑廃止の大きな根拠になったわけであるが、わが国においても、死刑冤罪のおそれは、死刑廃止論の最大の根拠とされている(団藤重光『死刑廃止論』有斐閣など)。

このような死刑廃止論(冤罪主根拠廃止論)に対しては、「冤罪は裁判一般の問題である」「死刑に限ったことではない」と反論されるのが常である。そして、「冤罪を理由に廃止せよと言うならば、裁判自体を廃止しなければなくなるはずだ」とか、「取り返しがつかない点では他の冤罪も同じである。自由刑でも失った時間は戻ってこない」などと反論を伸張する向きが多い。

しかし、死刑冤罪の問題は、死刑制度と裁判制度の限界(誤判)がクロスする問題領域であり、死刑廃止論が強調するのは、そのクロスポイントにおいては、問題性が極限的不正義にまで拡大、増幅することである。いわば、特異点の指摘である。だから、冤罪は裁判一般の問題であるとして視点をずらずだけでは、十分な反論にはならない。

それに、冤罪主根拠廃止論は、死刑という一つの刑罰について立法政策上の刑種選択をしないことを主張しているのであって、裁判の在り方を言ってるわけではない。実際、それによって死刑裁判が終身刑裁判なり無期刑裁判なりに置き換わるだけであって、何か特定の裁判が廃止されるわけでもない。

また、自由刑と死刑の不可逆性を同視することは、質的に見て明らかに無理である。自由刑は、身体の自由を奪うだけで、基本的な意味での人間的尊厳は残すところに特徴がある。冤罪で誤って処罰される場合においても、基本的な意味における人間的尊厳は奪われてない。「自由刑でも失った時間は戻ってこない」とのカテゴリー攪乱的反論は、逆に、近代啓蒙期に刑罰体系が身体刑中心から自由刑中心への一斉転換した歴史的意味を十分に理解していないと言われてもやむを得ない。刑罰が「身体から自由へ」と移行した最大の意味合いは、罪を人間存在に刻印するのをやめた点にある(したがって、取り返しがつかない点では、死刑と身体刑が同様と言うべきで、自由刑は異なると言うほかない)。

その意味では、一般に言われてるところは、有効な反論になっていない。

冤罪で死刑にされることが極限的かつ絶対的不正義であることは、まごうかたなき真実であり、否定のしようがないだろう。

(あとがき、より引用)
第三に、本論でも出てきた死刑冤罪の問題がある。法治国家においては、その問題性は、やはり、大きい。冤罪の可能性を含みつつ死刑制度を存続させることは、目的や理由は何であれ、「罪なき者の血を流す」という思想を認めるにほかならない。その思想自体が、一方では、キリスト教的伝統をはじめ、人間倫理の根底を揺り動かしかねない異風であるとともに、他方では、ほかならぬ自己存在に流れ矢となって戻ってくる自縄自爆的な面がある。

戦後、日本で発生した死刑冤罪は、司法当局が公式に認めたものだけでも、今までに四件ある。それらは、死刑確定後執行前に冤罪であることが判明した分である。すでに死刑執行されてしまったケースや獄死を含めると、実数は、おそらく、二桁に昇るだろう。

確信的死刑肯定論者であるためには、冤罪で自分が死刑になる可能性を覚悟しなければならない。そうでなければ、ただの欺瞞に終わる。
(引用終わり・・・電子書籍がコピペできれば楽なのにな)



回答は字数が多く書けるので、「死刑は取り返しるかない論」の違う説明の仕方をしてみよう。
結局、同じ事を言うわけだが。

人によっては集合論的な説明の方が判りやすいかもしれない。

「冤罪死刑は取り返しがつかない」

廃止派がこう主張すると、存置派は「取り返しがつかない」の集合を作る。
そして、「冤罪自由刑も取り返しがつかない」「冤罪罰金も取り返しがつかない」として、
冤罪の取り返しがつかないのは、死刑だって、懲役・罰金だって同じじゃないか、とする。

「取り返しがつかない」の集合を作る、と言ったけど、「集合」というのは日常言語の「概念」のこと。

議論領域を刑罰に限定して、
「取り返しがつかない刑罰の集合」を作れば、集合の要素として{冤罪死刑、冤罪自由刑、冤罪罰金}が並ぶ。

たとえば冤罪死刑を要素として取り出して、
「冤罪死刑は、取り返しがつかない刑罰の集合の要素である」なんて表現したりする。
これは日常言語的に、
「冤罪死刑は取り返しのつかない刑罰である」
と表現してもよい。

つまり、集合は命題で表現でき、命題は集合論で表現できる、ということ。

実際、論理学と素朴集合論は、実質、同じもの、と言ってもよい。
(数学の公理的集合論は別物になってしまうが)

「冤罪自由刑は取り返しがつかない」の主張があったなら、
「冤罪死刑」は主語、「取り返しがつかない」は述語。
「冤罪死刑」は要素、「取り返しがつかない」は集合。
と見ることができる。

「雑談文」で

>別物であるハズのものを存置派は、「取り返しがつかない」の概念で全部ひっくるめてしまう。

と書いたのは、「存置派は『取り返しがつかない』の集合を作る」に対応する。

たしかに、「取り返しのつかない集合」を作ることはできる。
だけど、そこに集めて要素である「冤罪死刑・冤罪自由刑・冤罪罰金」はそれぞれ違うものですよ、と言いたいワケ。


廃止派の主張。
「冤罪死刑が取り返しがつかないから死刑廃止であるならば、他の冤罪刑罰も取り返しがつかないから他の刑罰も廃止しなければおかしい」

このような主張もあった。この論理は成立するだろうか。

たとえば、

知恵袋中学3年3組の生徒の集合を作る。
要素には、太郎や花子、俊太郎や寛也や百合子などがいる。
太郎・花子・俊太郎・寛也・百合子、は別人で同じじゃないでしょ。

ある日教師が生徒の前で話した。
教師「百合子は成績が良いからyahoo高校に入れるな」
俊太郎「僕は百合子よりも成績が良いですから僕もyahoo高校に入りたいです」
教師「いや、俊太郎。君にはyahoo高校は無理だな」
俊太郎「それはおかしい。百合子の成績が良いからyahoo高校に入れるというなら、もっと成績の良い僕が入れないワケがない。先生は間違ってる」

はたして、俊太郎の主張は正しいのだろうか。
俊太郎が正しいのなら、冤罪を根拠に死刑廃止を主張すれば、他の刑罰も廃止しなければならない、かもしれない。
しかし、俊太郎は間違っている。

教師「俊太郎。君がyahoo高校に入りたい気持ちはよく分かる。分かるのだが、yahoo高校は女子高だからねえ。無理なのだよ、スケベ俊太郎君(スキャンダルはどうなる?)」

かくして、死刑存置派の理屈「死刑を廃止するなら他の刑罰も廃止」の論理は、形式上、成立しない。


「冤罪死刑が取り返しがつかないから死刑廃止、というなら、冤罪懲役も取り返しがつかないから懲役も廃止しなければならない」

そんな論理は存在しない。

「yahoo高校が女子高だなんて後出しジャンケンだ」というのは違う。

後出しジャンケンで通らなくなる論理は、論理が論理になってない、ことだ。


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(これは後日、書いていきます)